和田光正作品集III・「輝跡」
 
 
 
 
    
 
前へ
 
日本では貴重な裂地として書画の表装に用いられたり、茶の湯の興隆につれて名物裂のひとつとなっています。名物裂では、中国渡来のものを上代印金として最高位に置き、その他に朝鮮の高麗印金、日本で倣製された典司印金、奈良印金、高野印金などがあると伝えられています。日本に伝来した印金の技術は、我が国に於て長足の進歩をとげ、日本独特の世界を創り出します。すなわち、中国の印金が幾何学的文様の反復文様が多いのに対し、功緻な日本の文様を創作し、豪華絢爛で詩情豊かな絵文様を自由に描き出しこれを金彩技法である慴箔・振落とし金砂子・押箔で表わしています。ところで、日本に於いて衣服に金が使われ出したのはいつ頃であるのか明らかではありませんが遺品としては正倉院裂に金箔を織り込んだ綴錦があり、平安時代中期以降、男女の装束の袴や唐衣や上着などに箔の文様が付けられた様子が、散見されると言われている面からも、すでにこの頃から十分に日本の金彩技術が育ち開花する素地があったようです。桃山・江戸時代に小袖・能装束・鐙上着・鐙下着等々に刺繍、絞りと共に慴箔・振落とし金銀砂子・押箔の技術が確立され、その技法を駆使して創作された衣服の名品が今日でも伝えられ大切に保存されています。桃山時代は良く知られているように日本史上の一大転換期でもありますが、金彩の歴史の上でも大変重要な時代です。日本の歴史の中で、黄金の時代といえるのが安土桃山時代ですが、各地で金山の開発が行われ、金銀の産出量が飛躍的に増えたことによって、今まで極く一部の特権階級のもので
あった金銀が新興の武将や町人にまで使われるようになり、信長、秀吉を始めその時代の人々が金銀を愛し、彼等が自らの生活空間、調度、衣装を金銀で飾る装飾文化を創り上げ、金銀の輝きを権力のシンボルに最大限に利用し、輝きの美を喜びとしたものです。衣服の歴史のなかでは、今日の着物の原型とされる小袖様式が確立され、従来は下着的役割であった小袖が表着の性格を持つにつれ、次第に色彩と文様を付加されるようになり、豪華絢爛な染色の美が完成され、小袖能装束などには慴箔や振落とし砂子などの金彩の技術だけで文様が表現されています。日本の能狂言から歌舞伎に至るまで、ほとんどの芸能文化の原型がこの時代に形成され、金銀美を誇るこの時代に最も盛んに使われ、染織文化史のうえで、技術が高度に完成されたことがうかが知れます。このように、金彩の技法は、日本人の美意識、生活感覚に根ざしたものとして、桃山から江戸初期にかけて確立したわけですから、元禄年間、宮崎友禅斎によって始められた手描友禅よりも歴史的には、はるかに古くからあるわけです。しかし、かくも隆盛を誇った金彩の技法も、いつしか凋落し、明治からつい最近に至までは、手描友禅の数多い工程のなかで最後のお化粧係としての脇役に甘んじていたのです。その原因はいくつかあげられます。徳川年間にたびたび布告された奢侈禁止令による金銀使用の制限、過去の金彩が持っていた技法や素材の欠陥などがあげられますが、最大の原因は人間の力では抗しきれない時代の推移、時代の風潮があります。人間が存分に個性を主張し、いきいきと生活できる時代、こころのゆとりが物づくりに反映する創造集団の欠如が起因と思われます。桃山時代のように金彩の本来の真価が、今、十分に発揮できる時が再び到来しました。金彩友禅には独自の技法があり、その組み合わせによって、光の綾なすさまざまなバリエーションが生まれ、現代の感性にマッチした文様と色彩との調和を形成しています。
↑上へ